salmontiskunの日記

高校卒業まで田舎育ちで、そこそこ世間的に評価の高い都内国立大学および大学院に進学、その後都内IT企業で企画事務担当として働くアラフォーサラリーマンのブログです。特にテーマは決めてませんが、奨学金返済、マインドフルネス、などなど、「精神的、経済的、肉体的に幸せに生きるためには・・・」というテーマでブログを書いていきます。

第三者が取るべき「節度ある態度」とは -日大アメフト部事件 (続き)

第三者が取るべき「節度ある態度」とは -日大アメフト部事件 - salmontiskunの日記の続きである。
そもそも本事件において、詳らかにされるべき事象、今後の望ましい展開や最終的な帰結はどのようなものか。

本事件の根本的な原因を徹底的に調査し、その解決に向けたプロセスを白日の下に遂行していくこと

  • 日大アメフト部で今回の事件が起こった構造、根本的な原因を第三者委員会主体で徹底的に調査、分析し、明らかにすること。
  • 学校法人としての日本大学の内部統治体制に深刻な問題が存在すると判明した今、その権力構造、腐敗の状況を第三者委員会主体で徹底的に調査、分析し、明らかにすること

が最優先である。その上で

  • 日大アメフト部及び学校法人日本大学の組織内の問題の所在が特定された段階で、今回の不祥事の責任者含め題ある人物はその地位から更迭し、あるべき望ましい組織体制を一から刷新すること

が必要である。
日本大学職員組合2018/5/24付の声明で述べているように、上記プロセスは白日の下に晒された工程表に従って実施されるべきである。なお、問題ある人物の更迭や組織の刷新は、第三者委員会の強力な監督と厳しい監視の下、学校法人日本大学および日大アメフト部が直接の実施主体として遂行していく形になると思う。

ここで、本事件に直接関係のない第三者は、まず第三者委員会の調査結果、および今後の日本大学およびアメフト部の改革工程表の開示を待つべきである。「第三者委員会の立ち上げが遅い」、「改革工程表の提示が遅い」という事実に対する批判はしてよいし、すべきであると思う。が、日大アメフト部指導陣や日本大学法人本部に対しては、ここまで社会全体で批判*1が蔓延している今、わざわざ敢えて第三者が便乗する必要はないのではないか。
勿論、日大アメフト部や日本大学法人本部に大きな問題があるのは私も認める。最終的に両組織は一大刷新がなされるだろうし、場合によっては刑事、民事責任が負わせられる可能性もあるだろう。20歳という将来ある若者(宮川選手)のアメフト選手としての将来が断たれそうな今、義憤の感情の下で内田監督や日本大学組織そのものに対する怒りの気持ちを増幅させるのは私も理解できる。が、今現段階で内田監督その他のこれまでの言動(その中には根拠のない推測に基づくものもある)を批判したところで、異常な大衆の興奮状況(一種の魔女狩り)に拍車をかけるだけであり、一種の集団リンチに関わるだけにも思う。怒りのあまり、「集団リンチそのもの」が目的となってはならない。

繰り返しになるが、まず第三者委員会主導による詳細な事実関係、組織構造の本質的な問題が詳らかにされることが最優先である。第三者は明らかになった事実を把握した上で建設的な批判や提言を行う、また日本大学の改革の進捗状況を注意深く観察、批判していく、という地道なフォロー活動に勤しむべきで、それがあるべき良き市民の姿ではないかと思う。メディアの一過性の扇動的な報道に乗せられ、今現段階で分かりやすい悪者を罵ってストレス発散し、その後別の扇動的なニュースが現れた段階で、日大アメフト部のことは忘れ去り、別のわかりやすい悪者を罵る、という流れは望ましい姿とは思えない。

余談だが・・・少し前にメディアを加熱気味に賑わせていた相撲協会の事件、最近ほぼ忘れ去らたかのごとく・・・ですね。。

*1:という名の暴言や中傷も、本当に数多い。

第三者が取るべき「節度ある態度」とは -日大アメフト部事件

批判するにも冷静に、過激な表現は使わずに

日大アメフト部宮川選手の暴力的なタックル事件、事は日大アメフト部の問題だけにとどまらず、日大当局の不誠実で社会の良識からかけ離れた内部統治体制の問題にまで社会の厳しい目が向けられるようになっている。報道の過熱ぶりが当面収まる気配もなく、おそらく社会の関心も熱いままである。
社会の関心が高まるのはそれ自体悪いことではない。ただ、日大アメフト部、引いては日大の機構改革の行く末を抑制された節度ある態度で見守ろう - salmontiskunの日記でも述べたように、本事件をおもちゃのように「暇つぶしの題材」として扱うことがないよう、くれぐれも留意したい。義憤と言えば聞こえはいいが、自分自身が怒りの感情を持ち、その発散を目的に、日大アメフト部指導陣や日大当局を刺激的な表現で、口汚く罵るのは、単なる自己満足でしかない。さらに自らの怒りの感情を公にオープンにすることで、周囲にも怒りの感情が共鳴、伝播する。一人一人の怒りが拡散すると、社会全体のヒステリー傾向が雪だるま式に拡大していく。そうなると、理性、合理性に基づく冷静な判断が社会全体で許容されなくなる(≒社会全体で「わかりやすい悪者」を徹底的に制裁するまで満足しなくなる)。
一見飛躍した議論に聞こえるかもしれないが、いくつか過去の史実を思い出してみよう。中世の魔女裁判関東大震災時の朝鮮人虐殺、旧ユーゴ大虐殺 etc...
どれも最初は単なる噂話レベルの悪口でしかなかったものが、社会全体に広がり、負の感情がどんどん増幅し集団ヒステリー傾向に陥った結果の恐ろしい悲劇の産物である。

基本メディアの自浄作用には期待できない・・・一人一人の地道な心掛けから

大衆は、善悪二元論(戦隊もの、ハリウッド映画など)、正義の勇者が悪者を懲罰する物語(時代劇など)を欲する傾向があるが、実際のところ、このようなわかりすい単純化された物語で説明できる事象はこの世にほぼない。良心あるメディアであれば、様々なものの見方、様々な立場から見た様々な正義を大衆に提示し、「一つの事件の背後に様々な事象が存在する」という事実の複雑さをわかりやすく解説する任務にまず専念すべきと思う。また、ある事件を報道する際には、その事件が発生した構造を徹底的に調査、分析し、本質的な問題の所在を詳らかにした上で、得られた教訓が広く社会全般どのような場面で生かせるかという役割を果たすべきである。そうすることで、暴走しがちな世論を諫め、健全で建設的な方向に社会が誘導されると思う。そうなって初めてメディアの本来の役割が果たせたと言えると思うのだが・・・いかんせん資本主義のこの日本にあって、多くのメディアは「大衆が欲するものを提供する」という抗い難い誘惑に囚われ、悪者を徹底的に悪く描き、口汚く罵倒し、大衆の喝采を得ることに注力しているように見える*1
このところのメディアの報道傾向を見ても、普通の一般人が触れる機会の多いTVや大衆週刊誌、大衆紙などに自浄作用を期待するのは難しそうだ。よって、まず一人一人個人のレベルで、社会が集団ヒステリー傾向に陥らないように、自らが扇動者の役割を演じることのないように、律していくべきだと考える。
そのためには、まず小さなことであるが、一人一人が言葉を発する際に、乱暴な言葉をを使わないように注意するところから始めるべきではないか、と思う。前述のとおり、乱暴で極端な言葉はそれ自体、社会の集団ヒステリーの増幅装置となりうるのだから。

「不悪口」

なお、一人一人が乱暴な言葉を使わず、社会に発信しないということは、社会の暴走の歯止めとなるだけでなく、その人自身のためでもある。
仏教では、「不悪口」*2という概念があるらしい。


仏教の哲学は難しく、私も不悪口の概念を恐らく正しく理解できているわけではないが、

  • 悪口を言ってはいけない
  • 憎しみの心をもって乱暴な言葉を使わない
  • 悪口や乱暴な言葉は、その言葉を発した対象より優れているという優越感を得たい、という煩悩の表れで、それは脳への誤った快楽報酬である
  • 悪口や乱暴な言葉は麻薬のようなもので、一時は満たされても悪口や乱暴な言葉を発さずには満足できない状態に陥り、最終的にはその人自身をむしばむ

ということのようである。
深くて正しいと思う。

社会の暴走と歯止めとなるべく、また自分自身の幸せな人生のために、乱暴な言葉を使わず、口汚く悪口を言うようなことがないように、ありたい。

*1:一種の扇動者と言ってもいい

*2:読み方は、「フアック」ということで、英語圏の方々にとっては、若干シュールな発音"fu*k"らしい・・・

日大就活生の皆様へ・・・ご安心ください。就活への影響はほぼ皆無といってよいですから。

日大在学中で、現在就活中の学生が、面接官に「今回の事件についてどう思うか」と聞かれたケースがあったらしい。また本日行われた日本大学大塚吉兵衛学長の会見でも、学長自ら

「就職のところでハンディキャップにならないように、企業さんにはお願いしないといけない」

というコメントがあったとのこと。

www.nikkei.com

私も就活には苦戦した口で、就活生の苦悩とかネガティブなモードに入りがちな気持ちはよくわかる。私もそうだが、マイナス思考の傾向にあると、些細な事象をさも重大な出来事のように捉えてしまう。今回の事件が自分の就活に与える影響を過度に悲観的に感じている日大就活生も多いかもしれない。特に、5月のこの時期でも、自分が行きたい企業からの内定が一つももらえていなかったとすれば、焦りが最高潮まで高まっているかもしれないが・・・

ご安心ください!今回の事件が皆様の就職活動に直接的に負の影響を与えることはありませんから!

と声を大にして申し上げたい。

 

どうか冷静になって考えてみてほしい。普通の知性と理性を持つ採用担当面接官であれば、あなたが日大卒であるというだけで、マイナス評価をつけるなどありえない。世間はそれほど愚かではない。

あなたが日大に入って学生生活を送ってきたからと言って、世間の常識とかけ離れた異常な常識を持つ日大アメフト部指導陣および大学理事会や法人本部から、あなたの人となりが影響を受ける、ということはあり得ないのだから。日本大学に在学していたとしても、あなた自身の個性や信念と日大の現時点の問題は全く別物である。当たり前のことだ。

更に、日大教職員組合声明を読む限り、普通の学生達に直接的にかかわる機会が多い日大教職員の方々の感性や良心は立派なものに見えるし、日本大学では立派な教職員から適切な教育を受ける機会があるのだろう、と普通に想像できる。

就活がうまくいかないのであれば、まず自分自身を見直し、併せて今後の人生展望を深く考えた方がよい

確かに、どの世界にも偏った思想の持主や、短絡的な思考しかできない人間はいる。数は極めて少ないだろうが、「日大生は門前払い」という異常な面接官もいるかもしれない。それは言い過ぎにしても、採用ボーダーライン上に複数の就活生が存在する状況で、「どの学生を採用し、どの学生を落とすべきか」を深く熟考することなく、短絡的に日大生をまず落とす、という判断を下す不届きな採用担当もいるかもしれない。

ただ、そもそもそんな変な採用担当がいる企業で働きたいだろうか?新卒採用という重要業務に、知的に冷静に判断する能力にかける人材が就いている企業はどう考えても異常である。入社したところで世の常識が通じず、苦労することは目に見えているし、ある意味「日大生というだけで落とすような企業は、落とされてよかった」と思うくらいがよいと思う。

また、冒頭で「『今回の事件をどう思うか』と聞かれた」という日大就活生の体験談を紹介したが、その体験談は日大総長が言う就活のハンディキャップにはあたらない、と思う。普通に淡々と自分の思うところを正直に述べればいいだけの話である。普通に返せば、プラス評価になることこそあれ、マイナス評価になるなど考えられない。

もしも就活がうまくいかなかったとしたら、それは、あなたが日大卒だからではなく、また今回の事件が世間を賑わせたからでもない。就活は、基本的には、あなたの本質的な能力や特性が応募先企業の求める人材像に合致するかどうか、が全てで、「就活がうまくいかないのは、ミスマッチの企業に応募し続けているから」という単純な事実は冷静に受け止めた方がよい。

他人ごとに聞こえるかもしれないが、就活に失敗し続ける、という経験も、それはまた「自分にとって幸せな生き方とは何か?」を深く考える良い機会である、とも思う。本当に。

このブログでも何度か述べているが、これからの時代、大企業で安定して定まで働くというモデルはもはや実質的に瓦解しつつある。業界にもよるが、これからは一つの企業のみに属して滅私奉公で働き続けるというスタイルは時代遅れで、必要なプロジェクトごとに必要とするスキルを持つ人材が集まってプロジェクト完了までの短期間契約で働き、対価を得る、というモデルが自然になってくる。昭和的な感覚での「就活失敗」は、今の時代は全く失敗ではない。

では具体的に就活に失敗し、就職先が見つからない学生(日大生に限らず)が、どうやって食扶持を探し出し、生きていくのがよいのか。そのあたりは、また長くなるので、別の機会にでも私の考えを記したい。

日大アメフト部、引いては日大の機構改革の行く末を抑制された節度ある態度で見守ろう

2018/5/24 日本大学アメフト部内田監督および井上コーチの会見の顛末

日本大学アメフト部内田監督、井上コーチによる昨日2018/5/23に行われた会見は、不遜な司会の一連の態度も大きな一因となり、日本大学側の組織統制そのものに致命的な問題があるという印象を与えるだけに終わり、ワイドショーの恰好のネタを提供するだけに留まった印象である。

日大アメフト部の監督、コーチ陣が指導者としてあるべき役割を果たしておらず、指導体制の刷新が必要不可欠というのは、これまでの報道を見る限り明白と言ってよいし、同様に日大の内部組織統制体制にも大幅なメスを入れる必要があるのは誰しもが認めることだと思う。

世論が直接的に肉体に損傷を受けた関西学院大学の選手や、加害者である一方日大指導陣の横暴の被害者でもある日大宮川選手に深く同情するのは当然である。また、本事件の実質的な責任者および加害者である日大アメフト部指導陣、ひいては指導陣を適切な管理配下に置かず、野放図な状態に置いた日本大学理事会の当局を厳しく批判するのもまた妥当と考える。

ただ、日大アメフト部指導陣や大学当局への批判は、直接関係ない第三者が行う場合は節度ある態度で行うべきで、またその批判が単なる自己満足ではなく、本件の真相解明や再発防止、今後の教訓につながるような建設的な提言であるべき、と強く思う。

いつものことながら、メディアがあるべき役割を果たしていない・・・

本来であれば、良識あるメディアが世論の過熱を抑制し、最終的なあるべき解決の方向に向かうのをメディアが間接的に支援する役割を果たすべきだが・・・ここ数字地のメディア報道の醜悪ぶりも目に余る。

メディアは、常日頃から商売として成立しうる(≒ワイドショーのネタとして視聴率が取れる≒大衆に受ける)ネタを探し求め、恰好のネタを見つけるやいなや、複雑な世の事象を単純な善悪二元論の物語に落とし込み、悪者をこれ見よがしに徹底的に悪者として描き、世論の怒りを必要以上に扇動し、事件の関係者全てを食い物にする。

今回の事件でも残念というか、必然というか、この傾向に全く変わりはなかった。

たとえば、ワイドショーの一部出演者のコメントは単純に自分がこの事件を通して感じたアメフト首脳陣や日本大学当局への強い怒りの感情を、口汚く罵ることで単にストレス発散しているだけに見えるものも多い。

その他、井上コーチの性的嗜好に関する憶測報道が一部メディアで見受けられたが、それなど本事件に全く関係がないし、便乗商法を目的にネット上の憶測に基づく記事を作成、配信したメディアに対して、「ジャーナリズムとしての本懐はどこにいったのか」と本当に嘆かわしく思う。

また、日大教職員の本日発表の声明によれば、一部メディアは日本大学キャンパス周辺をうろつき、本事件に直接関係しない日本大学在学生にコメントを求めるという暴挙に出ているとのこと。ある意味今回の事件に心を痛め、間接的な被害者ともいえる罪のない在校生に無神経にインタビュするなんて、良心が痛まないのだろうか。

www.nikkansports.com

節度、品性を忘れずに批判しよう

まずは批判するにしても節度ある態度で、基本的には第三者委員会の徹底的な調査、および(もはやこの状況で期待するのは難しいかもしれないが)日本大学内部の良識ある有志による自浄活動、改革を静かに見守るべきと強く思う。第三者は。

自分のうっ憤を晴らすことを目的に口汚く罵りのコメントを出し、世論の沸騰に貢献することは、誰の得にもならず、とりわけ関学の選手、宮川選手の心の平穏に妨げになるであろうということは肝に銘じたい。

日大アメフト部宮川泰介選手の会見に見るデジャビュ -日本社会の負の側面 -続き

昨日の投稿を続ける。

日大アメフト部事件 -既視感(デジャヴュ)とは

昨日「私を含めた多くの社会人が、宮川選手の状況に一種の既視感(デジャヴュ)を見た」と述べたが、その心象が果たして妥当性を持っているかどうかを探るべく、ネット上を彷徨い、twitterのツイートや様々なブログ記事に触れてみた。結果、今回の事件を、日大固有の問題として捉えることなく、時には自分の体験談も踏まえながら、日本の体育会系部活動の暗部、ひいては日本の会社や日本の政治に関連付けて語る人をそれなりに発見できた。

幾つかのツイートを紹介する。

宮川選手の姿に自分の過去を照らし合わせる

私自身、宮川選手の悲痛な会見の様子を拝見しながら、不憫な彼のために悲しんだ一方で、彼の置かれた状況に一種の既視感(デジャヴュ)を見出し、そのデジャビュが私の悲しみを一層増幅させた。自分のこれまでの会社人生を振り返っても、宮川選手と同様の状況に自分が陥ったことも何度かあったのだ。

10年ほど前の、元上司の役員を思い出す。高圧的かつ非論理的なタイプのその役員は、部下の私たちに、達成不可能な売上目標と原価削減目標を提示し、その死守を命じた。当然のことながら、彼は部下からの目標の見直しの提言や数字未達の報告を断じて許さなかった。

当時八方塞がりになった私は、直属グループリーダーの指示もあり、自分が担当するプロダクトの売上目標計画値として達成不能な数字を設定、役員の前でその計画を実行する、と宣言した。ほぼ嘘の宣言である。もちろん、売上目標は達成できるはずもなかったが、その責任の一端は私も引き受けたが、上層部の誰もが責任を取らず、管理職の地位に留まり続けた。

恐らく日本の会社で働く多くのサラリーマンが私と同じような状況に置かれた経験があるのではないか、と思う。神戸製鋼日産自動車のデータ改ざん事件も、おそらく上層部の無茶な命令に論理的に反駁する術を持たない現場が暴走せざるを得なかった構造ではなかろうか、と想像する。

宮川選手の姿に日本社会の負の構造を照らし合わせる

ここ最近のニュースに登場する人物たちの中にも、宮川選手とほぼ同様の立場に置かれた面々は思い浮かぶ。

たとえば、森友学園事件の例の近畿財務局職員。言質を取らせないかつ逆らうことは絶対許されない指示が出され、公務員としての信義を犠牲にしてその指示に従ったものの、良心の呵責に耐えかね、自死されてしまったあの職員の置かれた状況は、本質的には宮川選手と同じと思う。

その他、柳瀬元首相秘書官の支離滅裂な答弁も、絶対的な権力を有する上層部の暗黙の指示や命令に従わざるを得なかった結果と捉えることもできる。

ここ最近のニュースだけではない。過去に歴史に遡ってみても、落合洋司氏が上で述べているような太平洋戦争末期の悲劇の特攻隊の方々も、置かれた状況は宮川選手と同様に見える。。。。

 

要は、昔から日本社会のいたるところで、

  • 絶対的な上位層が存在し、彼らが不条理な指示を狡猾な形態で配下の者に下す
  • 配下の者は、正義と反する行為であると頭で分かっていながらも、抗うことができず、愚直に実行する
  • 実行結果の責任は、配下の者が実行者として取らされる。命令を下した上位層はうまく逃げおおせる

という構造が存在し、数多くの末端の者が犠牲になってきた。

宮川選手の会見の模様を見ながら、同じような自分の良心に反する行為に手を染めざるを得なかった、数多くの日本人たち(たとえば以下のような方々)のやるせなさ、苦しみに自分に圧し掛かってくる感覚を感じた。

  • 同じような高圧的な体育会系の部活動に所属し、監督やコーチ陣の理不尽な指導、しごきに耐えている若者たち
  • 会社で不条理な目標を強いられ、その達成のために限りなくグレーに近い犯罪すれすれの行為に手を出さざるを得ない一般会社員たち
  • 政治家の嘘やはったりの辻褄を合わせるために、公文書を改ざんし、虚偽の答弁を行うことを強いられる国家公務員たち

宮川選手は象徴的な存在として、同じ苦しみを有する幾万の同胞日本人の存在を想像し、私の悲しみは一層深まり、心がずどんと沈む。

 

https://twitter.com/SamejimaH/status/998939381040738304

https://twitter.com/SamejimaH/status/998939381040738304

https://twitter.com/SamejimaH/status/998939381040738304

日大アメフト部宮川泰介選手の会見に見るデジャビュ -日本社会の負の側面

ここ数週間、世間を熱く賑わせている日大アメフト部部員の関学選手QBへの常軌を逸したラフプレー事件。本事件に関する報道は、ネット、TV共に異常な量を保ち続けている。衝撃的なラフプレー(一種の暴行)映像が繰り返し流される一方で、直接的に本事件に関係する日本大学内での自浄作用の気配が全く見えない状況にある。

アメフトというスポーツに対するイメージがこれでもかと傷めつけられているこの現状に、本当に心からこのスポーツを愛している関係者にとって、耐えがたい苦痛の日々が続いているのだろうと思う。

そんな中、本日、事件の直接的な加害者(実行者、という方が適切かもしれないが)である日大アメフト部宮川泰介選手が、被害者および関係者への謝罪かつ事件の経緯詳細を自分の言葉で説明すべく、会見を開いた。私もこの事件については少なからず興味を抱いており、できれば生の映像で会見を見たかったのだが、いかんせん私も普通のサラリーマン。日中の時間帯自由にTVやネット動画を見られる自由は与えられておらず、仕事の合間にネットで記事を読むだけにとどまった。(2018/5/22 22:00時点で、私は会見の動画をまだ見られていない)

それにしても彼の会見は記事で読むだけで胸が痛くなったし、心を打った。

www.youtube.com

thepage.jp

まだ20そこそこの若者が、素顔も本名も出して、大勢のメディアの面前で、日本中が注目している中で、時には記者からの遠慮ない質問にも冷静かつ丁寧に答えることを強いられる。

今回の会見は彼と彼の家族が自ら希望したものだと聞くが、彼への社会からの同情は高まったのは間違いなく、また正しいことを行ったという意味でも、会見して良かったと思う。それでも一種の公開処刑、拷問の様相とも言えそうな宮川選手にとって過酷な会見で、本当に気の毒でならなかった。

日大の大学としての危機管理対応能力のなさ*1や、日大アメフト部内田監督やコーチ陣の狡猾さやあざとさは厳しく社会から批判されるべきと私も強く思う。ただ、ここ最近の報道状況やネットの反応を踏まえると、当面彼らは社会的制裁を十分受け続けるであろう。大体私が日大やアメフト部監督・コーチ陣に言いたいことは、多くの方々が代弁されているし、ここで敢えて私が同じように彼らへの批判を述べなくてもいいか、と思っている。

なぜマイナースポーツの一事件がこれほどまでに衆目を集めたか

私が今回の事件で強く心惹かれたのは、「なぜこのニュースがここまでの衆目を集めたか」ということだった。

ホリエモンも、NewsPicksで本事件について、以下のように述べている。

 
なんで、この問題そんなに社会の関心を引いたのだろう。。

日本において、お世辞にもメジャースポーツといえないアメリカンフットボールが、今回の事件を除いて、これほど話題を集めたことは私の記憶にはないし、これだけの時間を割いてワイドショー、ネットニュースその他で報道されることはなかったと思う。事件そのものは悪質で、関係者は適切なプロセスにのっとった裁きを受けるべきだが、不幸中の幸いとでも言おうか、報道によれば被害者は致命的な肉体的損傷を被った受けたわけではない*2。事件の重大性以上に衆目を集めているのはなぜか。

実際、自分でも当初よくわからなかったが、今回の事件は私の心の奥底で強く琴線に触れたし、事件の関係者(特に日大および日大アメフト部指導陣)の対応を日々ニュースで確認していた。

色々考えた結果、私は、本事件がここまで自分を含めた社会の関心を集めた理由は、私を含めた多くの社会人が、宮川選手の状況に一種の既視感(デジャビュ)を見たからではないかと思っている。言い換えれば、私を含め、日本の様々な組織において働く者たちが、自分自身の状況と宮川選手の状況を照らし合わせたからではないか、と。

もっと具体的に言えば、上層部の無茶で無謀な命令に従わざるを得ない宮川選手の悲痛さ、実質的に命令を下したのは上層部ということが誰しもわかっているにも関わらず、末端に責任を押し付けた上でしらじらしい言葉で逃げおおせる上層部、などなど。
(続きは明日に!)

 

*1:たとえば、日大広報のこういう呑気なコメントを見るにつけ、この期に及んで事の重大さが本当に理解できていないのか、本気で不思議だ

*2:だからといって、宮川選手の暴力行為を過小評価すべきと言っているわけではない

奨学金という名の教育ローン事業を公的機関が運営する意味について考える -その3

前回の記事前々回の記事に続く。

繰り返しになるが、利潤拡大をその本質的な生業として期待されない日本学生支援機構が運営する奨学金事業は、民間企業には担うことが難しい部分にのみ特化して運営するべきである。

まず、民間で担える分野にまでわざわざ手を広げる必要はない。民間に任せられる事業は民間に任せた方が効率的に事業運営なされるのは自明だ。民間の場合は非効率な事業体は倒産や事業撤退という形で市場から淘汰されるためだ。

次に、年々日本国の財政状況が厳しさを増す中、多額の貴重な税金を前提に事業運営されている日本学生支援機構の税金負担割合を減らすべきという社会的圧力は今後高まってくると思われる。平成30年度計画予算によると、収入総額約2兆円のうち、過去奨学生からの返還金と貸付金利息と寄付金、雑収入が占める割合は9,000億弱である。これはつまり、本機構の事業運営のためには、1.1兆円という巨額の公的資金(つまりは税金)が必要であることを意味する。

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日本学生支援機構ホームページより。ここで「借入金等」、「運営費交付金」、そのほか各種補助金の原資はすべて税金である)

日本学生支援機構が行う事業範囲は、「公の機関にしか行えない最小最低限の部分」に残すべきなのだ。

本来公的機関として運営されるべき奨学金事業のあり方とは?

以下、1. 給付型奨学金事業、2. 無利子型奨学金事業、3. 有利子型奨学金事業の3つの観点で、日本学生支援機構の事業のあり方を考えたい。

給付型奨学金事業は現状機構が運営している規模と同等レベルで継続する。

極めて頭脳明晰で、かつ大学・大学院での学業を継続したいと考えている優秀な高校生が、家庭の経済状況により進学を断念するというのは、その学生にとって不幸なだけではなく、日本国としても大きな損失である。そのような若者の学業継続を支援することで、長い目で見た国の将来の発展にもつながるので、積極的に日本学生支援機構が給付型奨学金を提供することで、関与/支援するべきである。

勿論国の厳しい財政状況を踏まえ、給付対象となる条件も厳しくあるべきだ。給付条件として、以下3点を挙げたい*1

  1. 旧帝大 & 一橋/東工大レベルの国立大学の入学試験に合格できるだけの学力を有すること
  2. 家庭の経済状態が平均を大きく下回っていること(源泉徴収票などで審査)
  3. その高校生が高い志、学業を継続したいという強い意志を持っていること(面接、小論文で審査)
 無利子型奨学金事業は、規模を大幅に縮小して継続する。

無利子奨学金事業受給対象をすべての大学、専門学校とするべきではない。その基準は偏差値*2でもよいし、奨学金延滞率*3でもよいと思う。

以前投稿したように、大学進学のROIが低下した今、借金をしてまで「ただ何となくモラトリアムとして」とか「大卒の資格が何となくほしいから」とかいう理由で大学に行くべきではない。日本学生支援機構という公的な機関が、「学生がどんなときでも安心して学ぶことができるう、必要なサービスを提供していくこと」という聞こえのいい言葉の下、高校生に「ただ何となく大学に行く」などという愚かな選択をすることを助長させる仕組み(無利子奨学金)を継続する必要はない。

salmontiskun.hatenablog.com

最低線まともな大学に入学する努力をしたものに無利子奨学金の対象を限定することは、奨学金回収率がアップすることが期待できるだけでなく、多額の奨学金負債を抱えながらもまともな就職先につけないという不幸な学生の数を減らすことにもつながる。

 有利子型奨学金事業は、停止し、民間に委ねる。

前述のとおりである。民間で提供可能なサービスをわざわざ非効率な体制で公的機関が実施する必要はない。ましてや、日本国の財政状況はますます厳しくなっていくことは確実なのだから、公的機関が担う範囲は可能な限りスリム化させていくべきである。

*1:奨学金給付対象となる名門大学リスト」や、「世帯年収の条件」などの細かな条件は、ここでは取り上げない。本質的には二の次に決めていくべき内容なので

*2:たとえば「偏差値55以下の大学入学者は無利子奨学金対象とはしない」など

*3:たとえば、「ある大学の卒業生の奨学金延滞率が3年連続1%を下回った大学の入学者には無利子奨学金受給対象とはしない」など