salmontiskunの日記

高校卒業まで田舎育ちで、そこそこ世間的に評価の高い都内国立大学および大学院に進学、その後都内IT企業で企画事務担当として働くアラフォーサラリーマンのブログです。特にテーマは決めてませんが、奨学金返済、マインドフルネス、などなど、「精神的、経済的、肉体的に幸せに生きるためには・・・」というテーマでブログを書いていきます。

日大アメフト部宮川泰介選手の会見に見るデジャビュ -日本社会の負の側面

ここ数週間、世間を熱く賑わせている日大アメフト部部員の関学選手QBへの常軌を逸したラフプレー事件。本事件に関する報道は、ネット、TV共に異常な量を保ち続けている。衝撃的なラフプレー(一種の暴行)映像が繰り返し流される一方で、直接的に本事件に関係する日本大学内での自浄作用の気配が全く見えない状況にある。

アメフトというスポーツに対するイメージがこれでもかと傷めつけられているこの現状に、本当に心からこのスポーツを愛している関係者にとって、耐えがたい苦痛の日々が続いているのだろうと思う。

そんな中、本日、事件の直接的な加害者(実行者、という方が適切かもしれないが)である日大アメフト部宮川泰介選手が、被害者および関係者への謝罪かつ事件の経緯詳細を自分の言葉で説明すべく、会見を開いた。私もこの事件については少なからず興味を抱いており、できれば生の映像で会見を見たかったのだが、いかんせん私も普通のサラリーマン。日中の時間帯自由にTVやネット動画を見られる自由は与えられておらず、仕事の合間にネットで記事を読むだけにとどまった。(2018/5/22 22:00時点で、私は会見の動画をまだ見られていない)

それにしても彼の会見は記事で読むだけで胸が痛くなったし、心を打った。

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thepage.jp

まだ20そこそこの若者が、素顔も本名も出して、大勢のメディアの面前で、日本中が注目している中で、時には記者からの遠慮ない質問にも冷静かつ丁寧に答えることを強いられる。

今回の会見は彼と彼の家族が自ら希望したものだと聞くが、彼への社会からの同情は高まったのは間違いなく、また正しいことを行ったという意味でも、会見して良かったと思う。それでも一種の公開処刑、拷問の様相とも言えそうな宮川選手にとって過酷な会見で、本当に気の毒でならなかった。

日大の大学としての危機管理対応能力のなさ*1や、日大アメフト部内田監督やコーチ陣の狡猾さやあざとさは厳しく社会から批判されるべきと私も強く思う。ただ、ここ最近の報道状況やネットの反応を踏まえると、当面彼らは社会的制裁を十分受け続けるであろう。大体私が日大やアメフト部監督・コーチ陣に言いたいことは、多くの方々が代弁されているし、ここで敢えて私が同じように彼らへの批判を述べなくてもいいか、と思っている。

なぜマイナースポーツの一事件がこれほどまでに衆目を集めたか

私が今回の事件で強く心惹かれたのは、「なぜこのニュースがここまでの衆目を集めたか」ということだった。

ホリエモンも、NewsPicksで本事件について、以下のように述べている。

 
なんで、この問題そんなに社会の関心を引いたのだろう。。

日本において、お世辞にもメジャースポーツといえないアメリカンフットボールが、今回の事件を除いて、これほど話題を集めたことは私の記憶にはないし、これだけの時間を割いてワイドショー、ネットニュースその他で報道されることはなかったと思う。事件そのものは悪質で、関係者は適切なプロセスにのっとった裁きを受けるべきだが、不幸中の幸いとでも言おうか、報道によれば被害者は致命的な肉体的損傷を被った受けたわけではない*2。事件の重大性以上に衆目を集めているのはなぜか。

実際、自分でも当初よくわからなかったが、今回の事件は私の心の奥底で強く琴線に触れたし、事件の関係者(特に日大および日大アメフト部指導陣)の対応を日々ニュースで確認していた。

色々考えた結果、私は、本事件がここまで自分を含めた社会の関心を集めた理由は、私を含めた多くの社会人が、宮川選手の状況に一種の既視感(デジャビュ)を見たからではないかと思っている。言い換えれば、私を含め、日本の様々な組織において働く者たちが、自分自身の状況と宮川選手の状況を照らし合わせたからではないか、と。

もっと具体的に言えば、上層部の無茶で無謀な命令に従わざるを得ない宮川選手の悲痛さ、実質的に命令を下したのは上層部ということが誰しもわかっているにも関わらず、末端に責任を押し付けた上でしらじらしい言葉で逃げおおせる上層部、などなど。
(続きは明日に!)

 

*1:たとえば、日大広報のこういう呑気なコメントを見るにつけ、この期に及んで事の重大さが本当に理解できていないのか、本気で不思議だ

*2:だからといって、宮川選手の暴力行為を過小評価すべきと言っているわけではない