salmontiskunの日記

高校卒業まで田舎育ちで、そこそこ世間的に評価の高い都内国立大学および大学院に進学、その後都内IT企業で企画事務担当として働くアラフォーサラリーマンのブログです。特にテーマは決めてませんが、奨学金返済、マインドフルネス、などなど、「精神的、経済的、肉体的に幸せに生きるためには・・・」というテーマでブログを書いていきます。

奨学金という名の教育ローン事業を公的機関が運営する意味について考える -その2

返済を前提とする奨学金(学生ローン)事業は、公的機関がやらなくてよい

前回の記事に続く。私が給付型ではなく貸与型の教育ローン事業を民間に任せた方がよいと考える理由はまとめると、以下の通りである。

  1. 民間の金融機関ですら難しい与信管理、返済状況管理、滞納者への督促などの作業を公的機関の公務員が適切に実施できるとは考えにくい。
  2. 日本学生支援機構奨学金という名の学生ローンの回収を適切に実行できないと(最近状況は改善したとは言え、以前延滞金額は巨額である)、穴埋めには必然的に税金の投入が必要となり、間接的に国民全てでその負担を負うことになってしまう。
  3. 日本学生支援機構は、公的機関にしかできないことに徹し、民間企業に任せられることは民間企業に任せることで、日本学生支援機構の事業運営に必要な職員数その他諸々を削減でき、社会的コスト削減できる。

公的機関が与信管理、返済管理、滞納者への督促を行うのは得意と思えない

普通に考えて、与信管理、返済管理、滞納者への督促などの業務は民間企業の方が得意、というのは容易に想像できる。

ここで、「資金調達に悩む中小企業を救済すること」を目的に石原慎太郎都知事鳴り物入りで2004年に開始した都民銀行事業(都が1,000億円を融資)を思い出してみよう。都知事の思い自体は崇高で立派だったのかもしれない。しかし、長年の融資ノウハウを有する民間金融機関でも長引く不況のために貸し倒れに悩まされ、収益が圧迫されていたこの時期、都が80%を超える株を有する大株主として君臨する半公的銀行が、与信管理を適切に実施した上で融資、回収業務を適切に行えるはずはなかった。結果として設立後3年で1000億円近い累積赤字を抱え、都が400億円を追加出資するに至るも、状況は根本的に改善しなかった。最終的に都民銀行は複数の他の銀行と合併し、2018年5月きらぼし銀行として再出発しているものの、東京都保有株は3.9%にとどまっている。公的機関が経営に大きく関与する金融機関が最終的に失敗に終わった、一つの典型的な事例といえる。

www.kiraboshibank.co.jp

日本学生支援機構の「学生がどんなときでも安心して学ぶことができるよう、必要なサービスを提供していくこと」という理念自体はとても崇高で立派だが、現実的にできないことや不得意なことはやらない方がよい。第一に、機構の失敗の穴埋めには税金が使われるのだから*1。第二に、公的機関が担う範囲は公的機関にしかできない範囲に限定した方が、効率的な社会運営という観点でも望ましい。公的機関が関与する範囲が拡大すればするほど、その運営コスト(従業員の人件費その他諸々)として税金が必要となる。

私は必ずしも「徹底して公の業務の民営化を徹底的に推進していくべき!」という考え を持っていない。どちらかというと、「結果の平等(と今でもいうのだろうか)」にsympathyを感じるが、それでも現在日本学生支援機構が実施している奨学金事業の一部を民間に手放したところで、「結果の平等」が毀損されるとは思えないし、社会の効率的な運営という意味では、民間移譲すべきだと考えている。

次回は日本学生支援機構が運用する奨学金事業のあるべき姿、について少し突っ込んで考えてみたい。

*1:民間企業の場合は、原則として事業に失敗した場合の穴埋めは広く浅く投資家(株主)が負担することになるが、それは「自己責任」で処理されてよい問題である

奨学金という名の教育ローン事業を公的機関が運営する意味について考える

5/16の記事5/17の記事に関連して・・・もう少し思うことを追記したい。

日本学生支援機構の事業概況

日本学生支援機構のホームページによれば、 

独立行政法人日本学生支援機構

学生がどんなときでも安心して学ぶことができるよう、必要なサービスを提供していくことを組織の目的に掲げ、我が国の将来を担う若者たちの学びと成長を見守っていきます。

とのことだ。

日本学生支援機構は、独立行政法人ということで半官半民であり、常に税金の投入を前提に事業を行っている。普通の一般企業のように「利潤の追求が組織存続の絶対的な前提条件」というわけではない*1。前身の日本育英会の歴史を踏まえても、「学生がどんなときでも安心して学ぶことができる」ようにするための公的サービスを提供する機関という意味合いが強いようだ。

ただ、誰もが公的サービスとして認める給付型奨学金事業を展開する一方で、返済を前提とする奨学金事業も展開しており、後者はどちらかというと民間の数あるローン事業と同等の性質を有している。無利子型の奨学金事業であれば、利息返済分を奨学金を借りたものから免除しているという意味ではまだ公的サービスの性質を有すると言えると思う。しかし、有利子型の奨学金事業、利率が住宅ローン等と比較して多少安いという事実*2を踏まえても、実質的にローン事業に他ならない。

返済を前提とする奨学金(学生ローン)を公的機関が運営する意味があるのか

奨学金に限らず、住宅ローンの分野や、創業融資や中小企業への融資などの分野で、民間企業だけではなく公的機関の息がかかった半官半民の機関が関与するケースは多くある。前者の例は住宅金融支援機構の「フラット35」、後者の例は日本政策金融公庫の「新創業融資制度」、などがその例である。

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なので、奨学金事業だけを取り上げてあれこれは少し違う気もするが、そもそも民間に数多くの日本学生支援機構が提供しているのと同等の教育ローンサービスが存在するのであれば、わざわざ日本学生支援機構が返済を前提とした奨学金事業を実施する意味があるのか、と考える。

公的性質を有する日本学生支援機構が提供するサービスは、公的機関にしか実施できない給付型事業に徹し、返済を前提とする学生ローン型事業は民間企業に任せる、という考え方も一つありうるのでは、と思う。まず、シンプルでわかりやすいし、民間にできることは民間に任せるのが様々な面で効率的であるからだ。
(次の記事に続く)

 

*1:もちろん、給付型の奨学金事業を実施している民間企業は多く存在するのは事実である。また奨学金事業に限定しなくてもスポーツの支援だったり、寄付活動など様々なフィランソロピー事業を実施する企業は多い。しかし、いずれにしても、このような慈善事業を民間企業が行う前提は、その企業が「利潤を継続的に生み出し続けていること」であり、利潤の創出なしにフィランソロピーを継続的に実施することは不可能である

*2:参考データ: 平成19年度に貸与が完了した有利子奨学金の利率は1.2%~1.9%であるのに対し、平成19年度1月の三井住友銀行の住宅ローンの利率は変動で2.625%、固定で3.75%とのことである。

多額の奨学金を借り、完済する過程で、適切な経済感覚を身につけられた

喉元過ぎれば何とやら、という部分もあり、「あれだけ恨みつらみを書いていたお前が何を今さら」と言われそうだが、それでも敢えて言う。

奨学金返済完了後約5年が経過し、家計のバランスシート上完全に問題が無くなった今、過去を振り返って思うことは・・・

  • 約500万という奨学金を借りて約9年で全額返済するという経験を通じ、健全な経済感覚を醸成することができた
  • その経済感覚は今も維持し続けており、自分の人生において非常に重要な経済的教訓を得ることができた

という点で、多額の奨学金を借りて苦しい思いをして返済を完了させる、というプロセスを経験できて良かったのだと思う。「思うようにしている」ということはなく、今となっては、本当に普通にそう思う。

奨学金完済プロジェクト計画、立案、実行・・・そして目標を前倒しして達成!

以前のブログでも書いたが、多額の奨学金という負債の存在が一つの大きな要因となり、当時付き合っていた人との婚約を破棄することになった経験が私にはある。

婚約破棄の直後は当然のことながら本当に悲しい思いをし、特に実親への(理不尽な)恨みを増幅させたりもしたが、少し時間が経った後、私は「今後二度とこのような悲しい思いをすることがないように、まずは今後数年のうちにできるだけ早く残った奨学金残債(約230万円)を完済しよう」と決意した。

まず、月々の家計を綿密に見直し、削れる部分は削ることで、「月々の奨学金返済(約3万円)とは別に、いくらまでなら奨学金返済に向けた積立が可能か」を綿密に計画した。具体的には、毎月の手取りをベースとし、費目ごとの予算計画を立て、Googleスプレッドシート上で月毎に何の費目にいくら使ったか、計画値(予算)との差異はどうだったか、など、すべて記録・管理していくこととした。結果、当面は月々7万円の奨学金返済が可能と判断していた。

私が付けていた家計簿のイメージ(ある月のサマリのデータ)
  実態 予算 差益
総計 283,752 286,120 2,368
家賃 72,000 72,000 0
電気 3,500 4,000 500
ガス 1,197 1,500 303
水道 1,491 2,000 509
日用消耗品 0 1,500 1,500
食費 38,252 32,000 -6,252
通信費 11,702 12,000 298
被服費 0 3,000 3,000
医療費 6,8080 2,500 -4,308
美容費 0 0 0
交通費 3,760 4,500 740
趣味・娯楽費 15,788 20,000 4,212
交際費 15,762 20,000 4,238
雑費 1,700 488 -1,212
伊勢丹積立 5,000 5,000 0
保険料 6,015 6,015 0
奨学金返済 29,617 29,617 0
奨学金返済積立 70,000 70,000 0

 

以上は実際に私が当時管理していたGoogleスプレッドシートの2012、2013年頃のある月の家計簿サマリの例である。とにかく当時は「奨学金完済」を自分の人生における短期的な至上命題(何としても達成すべき!)と設定し、あらゆる家計簿項目を徹底的に見直し、少しでも完済の日を速く迎えられるように種々考えていた。

たとえば、この月の頃までは、伊勢丹積立*1、保険料*2という項目がある。しかし、伊勢丹積立は当時の自分には伊勢丹で買うようなものはなく、贅沢品であると判断、満期を迎えるタイミングで止め、保険も特に独身の自分には前々から不要なものと思っていたため、タイミングを見計らって解約した。結果的に伊勢丹積立停止、保険解約完了後には奨学金返済積立額は8万円にアップできた。

この他にも項目単位で、自分の生活に過度に不便をかけない範囲で倹約を継続、最終的には目標をかなり前倒しし、「可能な限り早期の完済目標」を思い立った時から2年弱で、奨学金を繰上完済できた。日本学生支援機構から支払証書が届いた瞬間は、「やり切った、やればできる」という達成感で気持ちが良かった。

現在も家計の健全な管理と健全な倹約生活の習慣は継続している

奨学金完済」という目的を達成するために・・・

  • 徹底的に家計を見える化し、無駄な支出省く。
  • 計画した予算内でその月の支出額総額を抑える(項目事に黒字赤字の凹凸はあってもよいので、最終的に総額として辻褄を合わせる)。
  • 積立/貯蓄に回す金額を可能な限り大きくする。

というプロセスを私は愚直に実行していたのだが、この習慣は奨学金を完済後、結婚した今も続けられている。経済的に余裕ができた今は、もう少し各項目に余裕を持った予算で生活をしているが、それでも

  • 家計簿をつけ、適宜見直し、反省する
  • 無駄なものには支出しない
  • 予算の範囲内で生活する
  • できるだけ貯蓄や投資に多くの金額を回す

という大原則は崩してはいない。おかげで、今となっては当面何があっても困らない程度の十分な金融資産を蓄えるまでに至っている。

大きな経済的苦労をしていない人間であれば、お金はあればあっただけ湯水のように趣味やくだらないものに費やしてしまうものだ。自分の身の回りの人々を見ていても本当にそう思う。が、私のように多額の奨学金を返済するなどの経済的に大変な苦労をしていれば、お金の有難みは理屈ではなく身に染みて理解できるようになる。よって生活レベルを落として少ない金額で自分のやりたいことを過度に犠牲にせずにやりくりして暮らせる生活の技術を身に着けられる。また、奨学金返済をしている時は確かに大変だが、返済が終わったら、返済額はそっくりそのまま貯蓄に回せるので、最終的に奨学金返済経験者の方が未経験者より金融資産が多くなっている、というパターンは普通にありうると思う。

結果論だが、私にとっては多額の奨学金返済は、健全な経済感覚を身に着けるきっかけを与えてくれるものだった、ということもできるのだ。

*1:よくある百貨店積立、毎月一定額を12か月積み立てると、最終月に毎月の積立額×13か月分の金券がもらえるというとてもお得なサービス。積立を始めたきっかけは、付き合っていた彼女(破局した婚約者)へのプレゼントを買うことだった

*2:よくある医療保険。あまり気が進まなかったが友人からの紹介ということもあり、断り切れず加入してしまった

自分が幸せと思えば幸せだし、不幸だと思えば不幸である・・・たとえ多額の奨学金負債を抱えていたとしても

一言で言えば、「物は考えよう」ということに尽きる。高校大学大学院の学費を奨学金で賄い、卒業後に約500万程度を独力で払いきった自分の経験に限って言っても、奨学金の負債程度が人生に与えるマイナスの影響は、考え方一つでポジティブに乗り切れるものであったように思う。

断っておくが、自分自身が以下に述べていくような望ましい意識で日々過ごせているわけではないし、実際、奨学金返済記載中は、今以上に、過去の投稿で記載した通り、恨みつらみでいっぱいで、自分自身が自分の人生を不幸な方向に強いていた。その経験を踏まえても、少なくとも自分が置かれていた奨学金返済の状況程度は、考え方一つで精神的に楽になれるものであったし、もっとうまい生き方をしておけばよかったのに、と今でも勿体ない時間の過ごし方をしていたと思う。

月並みだが・・・自分が有しているかけがえのないものに意識を集中する

まずは、他人と比べず、他人が持っているものや他人の置かれた豊かな環境を羨まず、あくまで自分の状況や自分が持っている貴重なものに意識を置く。その考え方の訓練を日々意識的に行っていればよかったと思う。姉や、裕福な友人の状況と自分を比べたりせず、自分が持っていて、普段気づかないかけがえのないものを常に心にとめ、口に出す。たとえば・・・

  • 肉体的に五体完全に健康で、日々生活を行う上で何の支障もない。
  • 家族や身近な人々も同様に健康上大きな問題はなく、介護等の経済的負荷を負うこともない。
  • 自分のことを常に気にかけてくれる大事な家族*1や、友人が存在する。
    彼らは、自分に何か大変な事態が勃発したら親身になって助けてくれるだろうと信じることができる。
  • 当面破綻やリストラのリスクのない企業で働けている。質素に暮らしている限り日々の暮らしに何の問題もない。月々3万円程度の奨学金返済があるものの、奨学金返済は闇金と違って、万々が一の事態で返済に滞るような事態が発生したとしても、ただちに生活が破綻する恐れはありえない。
  • 1年に1回程度であれば趣味の海外旅行に行けるだけの経済的余裕もある。また、読書や映画鑑賞などの自分の趣味を過度に我慢しなくてもよい。
  • 色々問題こそあれ、戦争やテロの危険も低い安全でご飯の美味しい平和な国である日本で暮らせている。

・・・今こうして書き出してみるだけでも、当時は勿論、奨学金返済が無くなった点とそのほか数点を除けば、今も私は「自分が幸せだ」という言いきれるだけの数多くの要素が列挙できる。

たとえば、奨学金返済がなかったとしても、上記で列挙した要素がたとえ一つでも満たされなかった、としたら・・・自分を幸せだと思うことはもっと難しかっただろうし、そう思えば、500万の奨学金返済なんてなんて取るに足らないことであったのに、と今さらながら思うのだ。

人は元来、弱き者だし他人を羨む性を持っているし、自分の持っているかけがえのないものの存在を当たり前と思い、他人と比較して自分が持っていないものや、自分に足りないものへの意識を常に働かせ、その不足を満たそうとする。

健全な向上心に基づく健全な自己実現ステップであればまだしも*2、往々にしてそのような「欲しがり」は際限のない無意味な欲望の連鎖(一旦欲しがったものが手に入ったら、更に次のものを求め、その連鎖は際限なく続く)にはまってしまう。

常に他人と何かを比べ、不足分を欲しがっている状態、また自分が他人と比べて持っていない事実を羨んでいる状態、は、幸せな状態であるとは到底思えない。

本当に状況は人それぞれだし、人によっては考え方の転換が難しいのはわかっていて敢えて言うが、奨学金返済程度、であれば「自分が有しているかけがえのないもの」の存在に目を向けて、「自分が幸せだ」と信じられるだけで、生き方が多少楽になると思うし、何とか乗り切られるものだと思う。

自分が幸せと思える事実を列挙して幸せだと信じられれば幸せだし、不幸だと思える事実を列挙して不幸だと思えば不幸なのだ。前者の生き方の方が確実に楽だ。

*1:今でも自分の当時の振る舞いが恥ずかしいが、私がどんな非礼な態度をとっても、両親は常に私のことを思っていてくれ、何かと気にかけてくれた

*2:たとえば、スポーツ選手が自分より優れたトップ選手と自分とを比較し、足りない要素を分析、その差を府埋めていく、などは意味があると思う

奨学金を借りることで家族間の不仲の火種が生まれることもある -続き

先日書いた記事の続き少し補足したい。先日述べた通り、高校時代に冷静・客観的かつ誠実な親子間の話し合いをすべきだったあったと強く思うが、加えて、社会人になった直後にもきちんと話し合うべきであったと思う。以前書いた内容の繰り返しになるが、私のケースでは、姉の私立大学進学費用、生活費含めてすべて親が負担したという事実があり、親も「私が高校、大学、大学院で借りた奨学金については親が卒業後に支払うつもりだ」と言ってくれていた。私も、大学院の分はともかく、高校、大学で借りた分くらいは親が負担してくれるであろう、と高をくくっていた。しかし急に卒業後に手のひらを返され、「私がすべて返すべき」ということになった。

社会人になって10数年を経過した今であれば、親の態度が変わった事情にも理解ができる。当初は本当に私の両親も私の代わりに返済してくれるつもりだったのだろうと思う。ただ、単純に事情が変わったのだ。高齢になるにつれ、父の給料も当初想定以上に下がり始めたのかもしれないし、母がパートで収入減少分の埋め合わせをしようにも、体の無理がどんどん効かなくなってきたのかもしれない。また、当時父が単身赴任先で同居していた私の祖母の介護関係の費用も、ずっしりとかさみ始めたのかもしれない。そういう親側の事情を想像すらできず、ただ自分のことだけしか考えられなった自分はただただ未熟であった。恥ずかしく思う。

親しい身内だからこそ、腹を割った誠実なコミュニケーションが必要

自分の振る舞いが正当化されるわけではないことは前提として、ただ当時「状況が〇〇××の通り変わってしまった、結果的に当初言っていたように、奨学金の返済を肩代わりしてあげられなくなった」という事実を、ただただ両親の口から率直に語ってもらいたかった。望みすぎかもしれないが、更に「状況が変わって、若いお前に重い経済的負担をかけることになってしまった、姉は全部親負担だったのにお前にだけ負担をかけて、本当に申し訳ない」という言葉があったら、いくら未熟だった当時の私でも、親の状況に心からの同情を示し、多額の奨学金を自分で支払うことを受け入れたであろうと思う。

親からすれば小さいころから聞き訳がよく、勉強ができた私であれば「言わなくてもわかってくれるだろう、察してくれるだろう」という思いがあったのだろうと思う。だが、それは少々認識が甘い。何せ相手は学校を卒業したてで、お金を稼いで生計を確立した経験がない、未熟者なのだ。

私は私でもっと腹を割って、自分のやりきれない思いや不平等に対する怒りを親にぶつけるべきであった。私は自分で高額の奨学金支払を行うことになった段階から、(少々大げさだが)軽い絶望のようなものを感じ、「親と話し合っても無駄」と鼻から決めつけ、コミュニケーションをシャットアウトしていた。

以上を踏まえ、つらつらと親と私の、私の幼少期以降の歴史を今思い起こしていたのだが・・・・根本的に、私の実家では腹を割った誠実なコミュニケーションを行う、という習慣付けが存在せず、お互い察しあうという、忖度のコミュニケーションが基本であったように思われた。私と両親の間でトラブルや、不都合な事象が発生したとしても、その事象に目をつぶるか、もしくは多少言い合ったとしても根本的に解決しないまま流す、という繰り返しであった気がする。私が小さいときは親が権威主義的に言うことを聞かせるというパターンもあったか・・・。要するに、親子の間で健全なコミュニケーションが存在しないまま育ち、大学院卒業時に私が社会人としての立場を確立、親と社会的に対等な立場になった時に生じた両者の深刻な亀裂を埋められるだけの信頼のパスがなかったのだと思う。

私のケースで言えば両親は二人とも後期高齢者の仲間入りをし、父はアルツハイマーで施設に入居中の身ということもあり、今さら両親とのコミュニケーションを見直す、というのはかなり遅きに失した感があるし、もはやどうでもいい。今後自分に子どもができた場合には、自分の不幸な体験を踏まえ、「あるべき正しいコミュニケーションの姿」はきちんと確立していきたい。

国(日本学生支援機構)への提言 -その2

昨日の記事の続き。

奨学金という名称を学生ローンに変更する

日本学生支援機構という団体名自体は変える必要はないし(実際学生の勉学を支援手しているのは事実)、給付型奨学金については、これまで通り、奨学金という名称を使うことに何ら問題はない。ただ、第一種(無利子)、第二種(有利子)の奨学金については、奨学金という名称ではなく、学生ローンという名称に変更すべきである。

百歩譲って、高度経済成長期であれば「奨学金」という名称を用いるのはまだ理解できる。有利子、もしくは低利の奨学金を借りたとしても、インフレの影響で実質負債額が小さくなり、「実質的な経済的恩恵が卒業後にもたらされる」のだから。今のデフレの時代に置き換えて言い換えると、マイナス金利でお金が借りるようなものだ*1

しかし、以前の記事にも書いたが、住宅ローンの変動金利が長年0%代を記録し続けているという事実が物語っているように、デフレで物価が下がる現代にあっては、無利子、低利子であったとしても、実質的に卒業後に支払う返済額には利子が上乗せされている。無利子であっても、実質的に利子を加えた返済を行っているのであれば、それは紛れもなくローンであり、「奨学金」という名称を用いるのは間違っていると私は思う。

名前を変えたからといって、具体的に何かが変わるわけではない、でも・・・・

勿論、実際問題として「日本学生支援機構 第一種奨学金」という名称を、「日本学生支援機構第一種学生ローン」と変更したところで具体的に何らかメリットがもたらされる訳ではない。ほぼ全ての高校生は、日本学生支援機構の総額金が実質的には学生ローンだということを知っているだろうし。また、たとえある高校生が情弱で、「奨学金が実質的に学生ローンであるという事実」を万一知らなかったとしても、普通の知性を持っていさえすれば、実際に奨学金を利用しようと思い立った際、徹底的に制度を調べるだろうし、その過程で容易に制度の本質にたどり着くであろう。

政府や公的機関には、正しい用語を正しい用法で使うべき

ただ、名称を正しく本来の意味で使い、公に正しく告知する、ということは、公的機関としてあるべき正しい姿だと私は思う。とかく国、行政機関は、都合の悪いことは国民に知らせない、もしく嘘ではないが適切ではない表現を用いることで国民を自分たちにとって都合の良いシナリオに導こうという傾向がある。

ここで、少し古い話になるが、福島第一原発事故のケースを取り上げたい。2018年になっても未だ完全な終息のシナリオが見えない、世界史上にも記録されるであろうこの深刻な事故、事故が起こったまさにその年に、政府からいきなり「冷温停止状態」という表現が飛び出し、さらにその年の12月に「原発事故終息宣言」なるものが首相の口から飛び出した。

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(2011年12月26日 野田首相記者会見)

政府、首相の発表内容をよく読めば、一般の国民が想像する意味での「冷温停止」や、「原発事故終息」が達成されていないことはわかるが、時間がない方や、出典や出所をを抑えず、健全な批判精神を持たずに物事を認知し判断する方(要は知的ではない方)は普通に多数存在する。誤った早合点に基づき、誤った現状認知がなされ、誤った判断がなされる、という状況は、望ましくない。誰にとってもだ。

繰り返しになるが、「奨学金」という名称を「学生ローン」に変えるということは、些末なことで、それ自体大きな影響をもたらすことはない。ただ日本学生支援機構は機構の設立経緯や理念からして十分に公的な団体なのだから、正しい言葉を正しい用法で正しく国民に周知する義務があると考える。

*1:ただ、それでも「奨学金」という本来の言葉の意味を踏まえると無理がある

国(日本学生支援機構)への提言

日本学生支援機構の発表

日平成29年11月発表「奨学金事業への理解を深めていただくために」によれば、

 3か月以上の延滞債権額は、平成24年度末をピークとして減少し、要返債権額に占める3か月以上の延滞債権額の割合は、JASSOの設立以降一貫して減少しています。
人数だけでなく、延滞債権額を見ても、年々、奨学金事業の運営の健全化が進んでいることが分かります。

とのことである。

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( 日本学生支援機構発表資料 p.33より)

また、更に滞納者数も順調に減っているらしい。

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なお、奨学金として貸与されるお金の財源の構成は、

  • 一般会計(要は税金): 40%
  • 過去奨学金を借りた方からの返済金: 60%

とのこと。(「奨学金ガイド」より)

 

以上を踏まえた日本学生支援機構の結論は、「様々な報道や出版の中には、誤解に基づくものが散見され、学生・生徒の皆さんが過度の不安にあおられている」ということのようだ。順調に延滞額も延滞者も減っている、といいたいのであろう。

ただ、

  • 多少減少傾向にあるとはいえ、総額2,400億円の延滞金が存在し、その穴埋めのために千億円のオーダーという単位の多額の税金が投入されていること
  • 減少傾向にあるとはいえ、依然16万という多くの卒業生が滞納しており、その多くの生活が苦しいであろうと想定されること

を踏まえると、状況が抜本的に好転しているわけではないと思う。延滞者が減ったのはその直前に機構が打ち出した幾分強硬な措置*1に不届きな延滞者が対応したからである。そのような強硬な措置を経てもなお、16万という滞納者がいる事実が何を物語っているか、少し考えてみれば自ずと実態が見えてくるのではないか。

私は、結局のところ、貸与すべきではない学生に多額の金額を「奨学金」という名のもとに貸与している現実がこの惨状を招いており、この現状に切り込まずして、抜本的な解決は図れないと考えている。では具体的にどのような対策が必要なのか。

一定の基準を満たさない大学には、奨学金を提供すべきではない

大学を卒業したからといって、安定が保証されることなどありえないこのご時世、学生の特性や学力、情熱ややる気などを無視して、高校時代の成績と親の経済状況と簡単な面接だけを基準にどの大学や専門学校に進学希望の学生に対しても、平等に奨学金を貸与し、卒業後に貸与した全員から問題なく返還が続くことを期待する前提は、そもそもあまりに無理がありすぎる。

日本学生支援機構の事業を継続性のあるものとするのであれば、民間の貸金事業の事業モデルに学びながら、改善していく必要があると思う。

まず、卒業後に返還の可能性が低い大学卒の学生には貸さない、というのが一つの解決策ではなかろうか。住宅ローン審査では属性が条件を満たさない申請者には貸さない、または貸しても希望額を大きく下回る額しか貸さない、など。

以前にも引用したが、大学の偏差値とその大学卒業生の奨学金延滞率の間には相関関係がある。そして、延滞率が高い大学のほとんどは、敢えて辛口で言うと、奨学金を借りてまで入学する大学ではない。

 

toyokeizai.net

延滞率が〇%以上の大学(もしくは大学学部)については、その大学(もしくは大学学部)入学者にはそもそも最初から奨学金を貸与しない、もしくは総額いくらまでしか貸さない、という指針を日本学生支援機構が示すべきだと思う。奨学金を借りてでも大学に行きたいというのであれば、相応の努力をして、それなりの学力を蓄えた上で知名度の高い大学に入学する、もしくは医学部、薬学部、看護学部など卒業後当面相応の給与水準が保証される学部に進学する、という方向に高校生のモチベーションを導くべきではないか。

平等に扱うことが常に幸せな結果をもたらすわけではないのだ。

*1:悪質な延滞者に対しては、法的措置をとる、信用情報機関に情報を搭載するなど