田舎のコミュニティ=政治哲学で言うところの共同体主義?
私が生まれ育った故郷(田舎)におけるプライバシーの概念 とは - salmontiskunの日記の続きである。
リベラル コミュニタリアン論争
少し話を脱線する。
20年近く前、大学院で政治学のゼミを受講することになり*1「リベラル - コミュニタリアン論争」に関する書物を参加メンバーの間で読み、議論する機会があった。大学院を卒業し、IT企業で働き始めて以来本腰入れて政治哲学の書籍を読む機会もなくなったため、当時学んだことは大分忘れてしまってしまったが、覚えている範囲で過去議論した内容を簡単にまとめると(専門家の方、下記誤った記載内容があれば、是非指摘してください!)・・・
- 共同体主義は、ジョン・ロールズが主唱する自由主義 - Wikipediaに対抗する概念として、マイケル・ウォルツァー、マイケル・サンデルなどを中心に理論化、発展してきた政治思想である。
- 自由主義が、国家やその他集団からの権威、統制から各個人が自由であるべき、各個人が独立した存在であるべきという考え方に依拠するのに対し、共同体主義の論者は「人間が完全に独立した存在でいることは不可能で、家族や自分に身近な人とつながり(コミュニティ)の中でのみ生きられ、幸せでいられる」という考え方を取る。
- 自由主義と共同体主義とは完全に対立する概念ではない。共同体主義者は、ある共同体がそのメンバーの自由を制限するような事態は決して許容しない。自由主義の立場を肯定しつつも、共同体やその規範の価値や意義をより強調する点が自由主義と異なる。
田舎は都会に比べて共同体主義の傾向が強い
コミュニティのつながりの強さ、共同体メンバーが順守することが期待されている様々なルールが存在すること、などを鑑みると、田舎は都会に比べて共同体主義の傾向が強い、と言ってよいと思う。そして、共同体主義がもたらす様々な正の側面が田舎では享受可能であることも、これまた事実と思う。極端な形で個の独立が追求されすぎると、人は孤立化し、必ずしも幸せな状態にはならない、というのは事実だと思う。極端な例をあげれば、たとえば、都会のアパートで孤独死に至る高齢者、など。
田舎では煩わしい近所付き合いから逃れることは不可能だが、反面その近所付き合いのおかげで、孤独死に至るようなことはないだろう。少なくとも、私の故郷では町中皆家族のような状態で、孤独死はまずありえない。
また一見煩わしく見える半強制的な青年会や区民会活動も、田舎のコミュニティ内メンバーの絆を深めることに一役買っているのだろう。そのような普段の活動を通じ、お互い顔を見知った仲であるからこそ、田舎では都会より「困ったときはお互い様」の精神が息づいているし、快くお互いの苦境時には見返りを期待しない助け合う関係が成立しうるのだと思う。
たとえば、以前私の地域を水害が襲い、私の実家も床上浸水という大きな被害を受けたことがあったが、地域内で親しくさせて頂いている幾つかの世帯の方々は、手弁当で復旧活動を手伝いに来てくれた。雨の日に隣近所の洗濯物を代わりに取り込んであげる、なども普通にあったし*2、所用で自分の子どもの面倒を見れないようなときに、近所の知り合いに子どもを預ける*3などもよく聞いた。プライバシーの侵害ともいえる口さがない噂話も、ある面においてはコミュニティ内のメンバーの状況確認(時には生死確認)につながっている側面もある。田舎において、ある人の状況や安否は必ず別の誰かが何らかの形で知っている、という状況が成立する。
私自身、個人的にはプライバシーの尊重を重視するとか、団体行動が苦手とかいう、反共同体主義とでも言おうか、そういう性格ではあるものの、共同体主義の立場や共同体主義が大事にしようとしているものには、十分シンパシーを感じる。私の故郷においても、健全な形で共同体志向を守り、継続させていってほしいと思う。もちろん田舎のコミュニティに改善すべき点が多々あるのは前提として。(どこをどう改善すべきか、については次回の記事で)