salmontiskunの日記

高校卒業まで田舎育ちで、そこそこ世間的に評価の高い都内国立大学および大学院に進学、その後都内IT企業で企画事務担当として働くアラフォーサラリーマンのブログです。特にテーマは決めてませんが、奨学金返済、マインドフルネス、などなど、「精神的、経済的、肉体的に幸せに生きるためには・・・」というテーマでブログを書いていきます。

批判/批評がそれ自体目的となってはならない -日大アメフト部事件 (そのまた続き)

前々回の記事前回の記事に続く。

これまでの主張のまとめ

これまで繰り返し述べてきたことで、くどいのは百も承知であらためて、「批判/批評それ自体が目的となってはならない」ことは再度記載しておきたい。
今日のテレビの各種ワイドショーでも日大アメフト部の事件は相変わらずトップの扱いで取り上げられている。テレビでも多くの出演者が学校法人日本大学と日大アメフト部指導陣を様々な表現で批判(中には中傷レベルに近いものもある。一種の魔女狩りである)を継続しているようだ。
批判、批評は「悪者に正義の制裁を加えている」という正義感ももたらしてくれるし、また何かを罵ることそれ自体が発信者のストレスを手っ取り早く発散する手段となりがちである。
ただ、批判、批評それ自体が目的ではないし、前回の記事で述べた通り、現段階で達成すべき最も重要なゴールは、「三者委員会主体で徹底的に調査で事実関係を詳らかにした後、日大アメフト部及び学校法人日本大学の組織内の問題の所在を特定し、日大アメフト部および日本大学統治機構体をあるべき望ましい体制へと、一から刷新すること」である。我々のような第三者は、口汚く日大アメフト部監督や日大組織上層部を罵るのではなく、上記で述べた「達成すべき最も重要なゴール」達成に向けて、その進捗を監視することである。そして、スムーズな進捗を妨げる要因が何かしら存在すると判明した場合には、その要因の除去に向け、世論として圧力をかけることが求められる。

日大宮川選手および、日大現役アメフト部選手たちを世の喧騒から守ること

なお、これまで述べてきた学校法人日本大学と日大アメフト部の抜本的組織体改革と同程度に重要なこととして、「日大宮川選手や日大現役アメフト部選手達の手に、平穏な日常生活と平穏な精神状態を一日も早く取り戻してもらうこと」も忘れてはならない。
宮川選手以外のアメフト部員達はほぼ罪はない。また宮川選手についても、「情状酌量の余地が大いにあり、むしろ日大アメフト部の悪の構造の被害者だ」という主張にほぼ全ての人が賛同するであろう。
そんな日大アメフト部の選手たちに対しても、世論がここまで加熱し、様々な誹謗中傷が蔓延している中で、様々な世の声が様々な媒体を通じて間接/直接的に届けられているであろう。世の声の中には、彼らの心をぐさりとえぐるものも多いだろうと思う。さらに、心無いメディアから不躾に突撃され、コメントを求められることもあるだろうし、現時点ではアメフトどころか普通に大学生として生活することも難しい状況であろうことは、想像に難くない。20前後の社会経験のない若者たち(中には成人前の選手もいるだろう)の気の毒な状況を想像すると、心が痛む。
本来であれば、メディア業界に身を置く方々が、ジャーナリストの良心に基づき、節度ある態度で取材活動に勤しみ、また世論の過熱を収める役割を果たして頂きたいのだが、これまでの様々な世を賑わす事件のメディア方向傾向を踏まえても、まず期待しても無駄であろう。一部に良心的なジャーナリストが存在はするが、彼らがメディアの趨勢になることはこれまでなかった。

よって、我々世論を構成する一人一人が冷静かつ節度ある態度で本事件にも接すべきである。
冷静かつ節度ある態度は、具体的に言うと、

  • 扇動的な報道や、出典の不確かなニュースなどからは距離を置き、そのような報道を行った機関に対して直接一視聴者として抗議の投書をする。特に日大アメフト部員は勿論のこと、個人のプライバシーに配慮しない報道を行ったメディアは厳しく批判する。
  • 身内の会話、ネット上での投稿において、単に学校法人日本大学や日大アメフト部首脳陣を罵倒するような内容は控える。代わりに、「一刻も早い第三者委員会の設置および組織改革の工程表の公表」を求め続ける。

あたりではなかろうか。

若干余談だが、以前、「ある治家および政治のレベルはその国の国民の知的レベルと同等である。」という説を目にしたことがある。ここで、「政治家をジャーナリスト」、「政治をメディア」に置き換えてみても、この説は真だと思う。平均的な日本国民の知的レベルに合わせた、日本国民が喜ぶニュースをメディアが流している、という言い方も可能だ。
ということは、メディアの自浄作用に期待する前に、我々一人一人が自分ができる範囲から「あるべき世論の姿」形成に向けて尽力することがまず重要、ということになるのだ。