salmontiskunの日記

高校卒業まで田舎育ちで、そこそこ世間的に評価の高い都内国立大学および大学院に進学、その後都内IT企業で企画事務担当として働くアラフォーサラリーマンのブログです。特にテーマは決めてませんが、奨学金返済、マインドフルネス、などなど、「精神的、経済的、肉体的に幸せに生きるためには・・・」というテーマでブログを書いていきます。

都会にあって田舎にないもの・・・

「田舎に住んでいるだけで、想像以上のハンディを背負わされている」・・・のはそうかもしれないが - salmontiskunの日記の記事で、

  • リアルに五感で文化を楽しむ経験、機会の差
  • 多様な考え、意見に触れられる機会の差
  • 情報量、選択肢の幅広さの差

の3点で、都会の暮らしの方が優れていると思うが、同時に限られた情報源と閉じたコミュニティの中でそこそこ幸せに暮らすのも悪くないのではないか、というどっちつかずの結論とした。

今日は我が身に振り返って、少し具体的かつ詳細に、都会にあってかつ田舎にないもので、自分にとって必要不可欠のなくてはならない要素を洗い出してみようと思う。そして、自分が漠然と考えている「都会暮らしの方が良い」という考えの根拠を詰めて考えてみたい。

都会にあって田舎にないもの

蔵書が豊富な図書館

私は本を読まないときは全く読まないが、スイッチが入った時は様々なジャンルの本をむさぼるように大量に読む。たとえば、友人との会話で刺激を受けたときに自己啓発系の本を読み漁るとか、精神的に大きなダメージを受けて、回復のために家に閉じこもって、大量の本を読み漁る、とか。基本的に本を読むことが好きなのだと思う。
ただ、平均より少し上程度の年収である自分には、好きなだけ何の気兼ねもなくamazonなどで本を購入できるほど家計に余裕はない。そのような私にとって、蔵書が豊富な図書館の存在は必要不可欠である。
幸いなことに、図書館が近くにあるかどうかを物件選びの条件にしたわけではないのだが、私が今住んでいる東京のわがマンションから徒歩3分のところに区営図書館がある。23区のうちの一つであるということで、蔵書レベルはほぼ問題なく、また在庫がなければ区内の他図書館から取り寄せもしてくれる。図書検索 - 予約 -予約確保連絡という一連の流れはすべてネットで完結し、極めて便利なので、わざわざ本屋に足を向けることも本当に少なくなった。
勿論、新刊図書はなかなか借りる順番がめぐってこないが、どうしても早く読みたいとか、一生手元に置いておきたいとかいう本以外は、図書館のおかげで無料で調達できるようになった。
翻って田舎では・・・私の故郷についていえば、そもそも近くに図書館というものが存在しない。人口が減っているから当然だが、町役場にお遊び程度の図書室があるのみだ。必然的に何か本を読みたいとなったら、amazonで買うより他なく*1。田舎で読書好きの方は、家計に大きく影響するだろうと思う。

国際色豊かでバラエティに富んだレストラン、カフェの存在

東京は世界一美食の町と言われる。ミシュランの星付き店舗の数は、本場フランスを抜いて世界一位らしい。和食は勿論のこと中華、イタリア、フランス、スペイン、エスニック、南米、ロシア、諸々様々な食文化が容易に楽しめる。また高級なレストランからコスパ抜群のビストロまで、選択肢はより取りみどりだ。
私の今住んでいるところは都心に近いということもあり、徒歩圏内に本当に様々な食事処がある。食を楽しむのに何の障害もない暮らしだ。
私は「衣食住の中で何を一番重視するか」と問われたら躊躇なく「食」と答えるほど、食べることが大好きな人間だ。食を通じて様々な世界の文化を学んでいきたいと思っているし、また同時に日本各地の様々な郷土料理を食し、和食の奥深さにも触れていきたい学んでいきたいと常々思っている。
なので、東京の食文化の豊かさは自分にとってとても大切なもので、田舎の極めて限定された外食のオプションを思いおこすと、東京の今の暮らしを捨て去ることはできない、と思う。

物価が安い・・・住居費を除いて

田舎から出てきた私に言わせれば、「都会の方が田舎に比べて物価が高い」と巷で言われる言説は、一部正しいが、状況を適切に示してはいないと感じる。
まず、土地、マンションなど「住」に関わる部分については、都会の方が物価が高いというのは紛れもない事実である。私の田舎など、4LDKのそこそこ新しい一軒家(土地庭付)の価格が1,000万前後だったりする。東京近辺だと、郊外でも安くて4,000万円はする物件だ。
勿論賃貸料も安い。2LDKの庭付き一軒家が家賃3万円、とか普通にある。もちろん駐車場もただだ。
しかしながら、住に関する費用を除けば、私の感覚では東京の方がものは安い。正確に言うと、何でも高いものから安いものまで東京ではバリエーションの幅が広いが、同じ品質のものを比べれば東京の方が田舎より物は安く、住居費さえ除けば生活を安くあげることも可能だと思う。
冷静に考えると当然だと思う。都会の方が物流が発達しているし、全国のあらゆる物品が都会にまず集められてくる。業者間の価格競争も激しい。翻って、田舎では物品を運ぶ物流コストがまず必要で、業者間の競争も限定的だ。たとえば私の故郷の実家最寄りスーパーの物品の価格と、東京の我が家の近くのスーパーの価格を比べると、体感的に東京の方が若干安い印象だ。日曜消耗品、衣類、美容院、その他諸々全てだ。
東京には一玉一万円のメロンとか、一粒2,000円のイチゴとか、上を見ればとんでもなく高い物品もあるは事実だが、安く暮らそうと思えばどこまでも安く暮らせるのだ。
その上、収入は田舎の3~4倍にもなり、住居費が高くても、日々の暮らしをつつましく暮らしていさえすれば、様々な文化的活動や海外旅行など自分がやりたい余暇を思う存分堪能できるのが東京の暮らしなのだと思う。

(次に続く)

*1:田舎の書店はあっても在庫に乏しく、使う気になれない

LGBTの方々の力になるために -「あなたのためを思って」という人に限って、傷つける傾向にある

勝間和代女史のカミングアウトは、LGBTの方々にプラスの影響を与えるだろう、しかし・・・ - salmontiskunの日記の続きである。

叶恭子氏であったか。
「『あなたのことを思って』という人には、『私のことを思う前に、まず自分のために生きてください』と返しなさい」という名言を述べたのは。
LGBTの方々への対応についても、この至極の名言は実に当てはまる。

勝間女史が強い意志と使命感を持って、「現在同性愛者である」とカミングアウトした勇気*1には敬意を称する。実際、自分がLGBTであるということに引け目を感じされられて、紋々と暮らしている多くのLGBTの方々に勇気を与えたと思う。また、彼女のような著名人によるカミングアウトは、「LGBTであることは異常ではなく、普通である」という社会の間での意識が広がったと思う。

ここで、彼女のカミングアウトに全面的に賛同する一方私が気にかけるのは・・・

  • LGBTの方々が、自分がLGBTであることを自分の人生においてどう位置付けるか、は本当にその人のごくプライバシーに関わる事柄である
  • したがって、カミングアウトするもしないも、「LGBTとしてどう生きるか」は、その人が自身の状況を踏まえて熟考し、決めていくべき事柄である
  • にもかかわらず、そこそこの頻度で、本人は善意のつもりなのだろうが無神経に、LGBTの方々に、特定の決断を迫るような言い方をする人を見かける(たとえば、「私は信頼してもらっていいから」という枕詞の下、カミングアウトを迫る人など)

ということだ。彼女のカミングアウトを変な方向に誤解せず、LGBTの方々にカミングアウトを強いるようなことにはなってほしくない。悪気がなければ何を言ってもいい、ということではない。

周りの人は、カミングアウトしていなくてもLGBTの方々(のように見える人も含む)に対し、とにかく普通に接すればよい

LGBTの方々が自分の性的嗜好を自由かつ普通に、何のわだかまりもなく話せるような世界が望ましいと私自身強く思う。しかし、残念ながら現代はその状態からほど遠いのは事実だ。LGBTであることが公開されることにより、周りから偏見の目をもって見られ、不利益な立場を強いられることもあるだろうと想像する。
たとえば・・・

  • ゲイとカミングアウトした方が、特定の職(軍隊、消防士など)に応募しても不合格となる(ただし、不採用の理由は公開されない)
  • 男らしさが要求され、密接に体と体が接触するスポーツ(アメリカンフットボールラグビーなど)で、ゲイの方々が敬遠される
  • 特に田舎など、保守的な価値観が根強い地域で、LGBTの児童、生徒はいじめの対象となってしまう

などなど。

自分の性的嗜好の公開そのものは、その人の人生において多大な影響をもたらすものだ。カミングアウト後の影響を深く熟考した上で、一生カミングアウトしないという判断をする人もいるだろうし、本当に信頼するごく少数の身近な人にだけカミングアウトする、と決断する人もいるだろう。要は人それぞれなのだ。
立ち居振る舞いや服装、身なりなどでLGBTに見える人への・・・

  • 「私は理解があるし、口が堅いからカミングアウトしてもらっても大丈夫だよ」
  • 「恥ずかしいことじゃないし、普通のことなんだから、私に言ってもらったら楽になるよ」
  • 「あなたのためを思ってカミングアウトを私はあなたに勧めているんだよ」

等の言葉。はっきり言って余計なお世話以外の何物でもないと思う。

本当にあなたが、身の回りに存在するLGBTとカミングアウトした方や、LGBTと見える人のことを思うのであれば、単に普通の人に対する態度と全く同じように接すればいい。敢えて性的嗜好の話をこちらから話す必要はない。とにかく普通、でありさえすればいい。
そして、彼 or 彼女が自分の性的マイノリティとしての話を自ら切り出し始めた場合には、基本的にただ淡々と話を聞いてあげるだけでよいのだと思う。

考えてみれば、カツラをかぶっているのが一目瞭然の禿の方、肥満の女性の方、その他何かしら身体的な特徴が一目瞭然に見受けられる方、等に対して、普通の良識ある大人であれば、素知らぬふりして接するのが一般的な対応と思う*2
LGBTの方々については、そのような良識ある態度が見られないのはなぜなのであろうか。無神経な「あなたのためを思って・・・」という枕詞から始まる言葉は時として深く傷つける。。。

*1:彼女自身、「人生で最大の勇気が必要でした」とTwitterで述べている

*2:その人がいないところで、その人の普通とは違う特徴について語ることはあるかもしれないが

「田舎に住んでいるだけで、想像以上のハンディを背負わされている」・・・のはそうかもしれないが

見えている世界の違い -田舎 vs. 都会 高学歴 vs. 低学歴 - salmontiskunの日記の続きである。

田舎者は、田舎に住んでいるというだけで、想像以上のハンディを背負わされている

これは、「底辺校」出身の田舎者が、東大に入って絶望した理由の記事から引用で、随分刺激的だが、言わんとすることはわかる。そもそも田舎には現代都会の方々が普通に想像できる多様な生き方が存在せず、また、若者にそれを想像させる機会そのものに乏しい。阿部幸大氏の心象風景と同様のものを私も感じている。
一言で言うと、彼が言うように「文化がない」ということに尽きるのだが・・・、なんと表現するのが適切だろうか。リアルに自分の五感で直接的に文化を楽しむ機会に決定的にかける、という言い方がもっとも自分の知覚にはまるように思う。そもそも、文化を紡ぎだす主体である人口そのものが田舎では乏しいことに起因するのだが、たとえば・・・

  • 美術館がない
  • 図書館がない(高校の図書室の蔵書は1万冊程度・・・)
  • 映画館がない
  • 音楽鑑賞を行う機会がない

などなど。

田舎とはいえ、テレビを持たない世帯などこのご時世皆無だし、ITの発達が著しい今となっては、ほとんどの若者がスマホを持っている。よって、その気になればテレビで文化的な教養番組を楽しむことはできるし、またその気になればスマホで様々な情報を取りに行くこともできるのは確かなのだが・・・
問題は、人口も乏しく限定された価値観の中で育った若者が、多様な文化に自ら能動的に触れる体験を持つことは難しい。そもそも「そうしよう」という動機が持てないからだ。
結局人間は自ら属するコミュニティの考え方、特に身近な接触する人たちがどういう価値観を持つかによって、その人の人間性や嗜好が形作られていく。文化的に多様なコミュニティに属していれば、幅広い文化に触れる機会も増え、生き方や将来の選択肢も多様になりうるが、文化的多様性に乏しいコミュニティでは、些か考え方や嗜好が狭まったものになりがちなのだと思う。田舎の人々の属性の多様性はどうしても乏しくなりがちだし、新たな気風や考え方が入り込む機会がそもそも、乏しい。結果的に、テレビやスマホという手段があっても、それらから得る体験は、多様性に乏しいものに田舎ではなってしまうように思う。これは、日本だけではなく多くの国でも見られる構図、な気がする。

「想像以上のハンディ」というのは少し言い過ぎな感もして、違和感もあるが、ただ自分の人生における様々な選択をする上で、都会に生きる者の方がより豊富な情報、多様な選択肢が用意されている、というのは事実に見える。職業の選択、趣味の選択、余暇活動の過ごし方の選択…etc
ただ一方で、情報量の多さや選択肢の幅広さが、その人にとって幸せをもたらすものかどうか、は、簡単に言い切れるものではないのも確かだ。田舎で生まれ、田舎で育ち、田舎で結婚し、田舎で子育てし、田舎で老い、田舎で一生を終える人生。彼(or 彼女)が幸せだと思えるのであれば、それは素晴らしい人生だし、私の今は亡き祖母も幸せそうだったし、田舎にいる友人たちもそうだ。経済的には大変そうだが、それでも人口が益々減少しつつある中でコミュニティ内助け合い、絆を深めつつ、自分たちが与えられているものに感謝しながら生きている人は少なくなさそうにみえる。

私は田舎を出て、大学入学以来、高い教育を受けた人たちの間のコミュニティに属している。経済的に余裕があり、様々な種類の刺激的な娯楽、文化的活動を好きな時に好きなだけ享受でき、職業選択の幅も幅広い今の環境を私は好んでいるし、今さら田舎に戻って束縛の強い環境*1で暮らすのはとても難しいと思う。ただやはり田舎にいた頃には肌感覚で理解できなかった都会の生活のストレス*2に、心身疲れ果てることもある。

  • リアルに五感で文化を楽しむ経験、機会の差
  • 多様な考え、意見に触れられる機会の差
  • 情報量、選択肢の幅広さの差

という観点で、田舎に暮らすものにハンディがあるのは事実と思う。それは認める。ただ、そのハンディが「想像以上」という強い言葉で語るべき程、田舎者の人生において致命的な悪影響をもたらすものなのか。
そこそこ幸せに田舎の閉じたコミュニティで暮らすことはそれはそれで幸せな人生ではなかろうか。
東京に出て、名門大学に行き、都会で(田舎では聞いたこともないような)職業に就き、多様な価値観や文化に触れる、という生き方を知る必要はそもそもなくてよいのか(≒知らなくても十分心豊かに幸せな人生を送ることができるのではないだろうか)。

何とも言えない。

*1:絆、コミュニティの強さの裏返しでもある

*2:特に仕事面でのストレスは田舎とは比べ物にならない。最近「働き方改革」の名の下にさすがに労務環境は改善されつつあるが、夜遅くまで働くことは都会では未だ普通だ。

勝間和代女史のカミングアウトは、LGBTの方々にプラスの影響を与えるだろう、しかし・・・

日本社会全体で、LGBTの方々を取り巻く環境は、少しずつ良くなっている

LGBTの方々に対する世間の目や、彼らを取り巻く環境はこの10年で劇的に変わった。日本社会における理解も進み始めた。思いつくままに、幾つか例を挙げてみると・・

  • 渋谷区では2015年、同性カップルは結婚に準じる関係にあると認め、要望する同性カップルに「パートナーシップ証明」を発行することを決定した
  • 私の勤める会社でも、特にLGBTの方々をテーマとして取り上げ、「多様性豊かな職場でお互い尊重しあって働ける環境を実現するには」という研修が数年前あたりから全社員受講必須として開講されるようになった。
  • 1980~1990年代に人気を博したとんねるずのパロディ「保毛尾田保毛男」が、2017年9月にパロディとして再放送されたところ、社会から「差別的で不快である」として非難の渦が沸き起こった。最終的には、フジテレビ社長が謝罪するまで追い込まれることになった。社会のLGBTの方々に対する感性が、1990年前後と現代では大きく変わったことを端的に示す象徴的な例であると思う。

LGBTの方々は、自分の性的嗜好が社会の少数派であるというだけで、他人に何も迷惑をかけていない。「社会に過度の負担をかけない限り、自分の幸福を追求する権利は万人に平等に与えられるべきである」という、ほぼ全ての人が同意するであろう原理原則に基づけば、彼らがこれまで受けてきた嘲笑や差別、攻撃の歴史は恥ずかしく思うべきものだ。彼らの状況がポジティブな方向に向かっていることを示す例が増えつつあるのは、心から喜ばしく思う。

勝間女史の「同性を愛している」というカミングアウト

そんな中、テレビをほとんど見ない私でも、たまにテレビ番組で姿を見かける勝間女史がつい先日、「現在同性を愛している」ことをカミングアウトしたとのこと。
https://twitter.com/kazuyo_k/status/100098334068761351

以下、勝間女史の言葉をBuzzFeedのニュース記事から引用する。

今は規範概念にとらわれて自分らしさを出せていない人に言いたい。同性を好きになってもいいんだよ。そのことに罪悪感を感じる必要はないんだよ。

(中略)

私は裕子さんがいてくれたから、こうやってみんなに公表しようという気持ちになれた。でも、多くの人はそうではないでしょう。その人にも伝えたい。仲間はたくさんいるんだよ、ということを。

勝間女史のカミングアウトは、率直に結構なことだと思う。インテリで社会的にも一定の成功を収め、多数のファンを抱える勝間女史のような方が「同性を愛している」という事実を公表すること自体が、LGBTの存在が特別ではない普通なもの、という社会全体の認識が深まることに貢献するのは間違いない。

彼女は離婚歴が二度あり、子どもも3人いるということで、「今回のカミングアウトが彼女の子どもとの関係にどのような影響を与えるのだろう?」など思ったりもした。また離婚が一度でなく二度という部分にも少し引っかかった。彼女は人を幸せにできる人なのだろうか、とか下世話な想像をしてしまった。

ただ、×2であることも、子どもとの関係にどう折り合いをつけているか、なども両方とも彼女の真にプライベートな領域に属する話である。他人が物知り顔で「道徳的に正しいこと」を偉そうに語って良い領域ではないとも思う。(賢い勝間女史のことだから、子どもとの関係についてはうまく折り合いを付けた後で公表したであろうと思うが)たとえ子どもとの関係に何等か負の影響があったとしても、今回の公表自体、日本全体にプラス効果を与えるという事実が存在するのは、誰も否定できないし、彼女は日本社会にとって、善きこと、をしたという結論に私はいたる。。

カミングアウトを敢えてしたくない、あるいはできない人もいる・・・たとえLGBTであることが罪悪ではない、とわかっていても

一点、心したいのは、勝間女史の今回の公表は大いに結構だが、「LGBTであることをカミングアウトすること、が一番正しいゴールである」というような短絡的な受け取りないようにしたい。人それぞれ考え方や感性は違うし、自分の性的嗜好をずっと心の奥底に留めたままとしたい、という方もいらっしゃると思う。他人の目には一目見ただけではわからないような、複雑な事情を抱えており、カミングアウてもできない、という方も同様に多そうだ。

たとえば・・・外見やしぐさ、振る舞いでLGBTのように見える方に対し、以下語りかけている女性に過去出会ったことがある。
「私はLGBTの友達も沢山いるし、理解があるから、私には本当のことを言っても大丈夫だよ、あなたゲイでしょ?ゲイであることは普通のことだし、普通にカミングアウトしていいんだよ。」
・・・この無神経なコメントを図れたゲイっぽい男性の心中をその後知る機会があったが
「自分にゲイの性向があるとは思うが、彼女みたいな親切なふりして自己満足で人の心の土足にどしどし入ってくるような女に、自分にゲイ性向があること含め、何一つ真実を語ろうとは思わない」と感じたとのこと。
当然と思う。
(長くなりそうなので、続きはまた次回に)

見えている世界の違い -田舎 vs. 都会 高学歴 vs. 低学歴

二元論の構図のdilemma

過去3回ほど、田舎のコミュニティと東京の著名難関大学出身者のコミュニティの違いというタイトルで記事を書いたが、実は記事を書きながら、田舎と東京(の難関大出身者)という括りで集団を真っ二つに区分し、対立構造に配置することは、避けるべきなのか、と少し思ったのも事実だ。「自分とよく似た感性を持つ集団」と「自分とは異なる感性と持つ集団」の区別は、切り口によって、文字通り無数に可能だ。田舎 vs. 都会、高学歴 vs. 低学歴、昭和世代 vs. 平成世代、男 vs. 女、経済的に豊かな
vs. 経済的に厳しい etc・・・・

生まれ持った先天的性質、生まれ育った周りの環境および歩んできた歴史などなど、人は様々な要素が複雑に絡み合ってその人の存在を形作る。ある特定の一要素だけを取り上げて、それ以外の無数の要素には目を瞑り、人間の集団を2つに区分けするのは、物事を単純化しすぎであり、些か乱暴ではないのか、と。

これまでの私のブログの記事のトーンから、分かっていただけると思うが、私は

  • 世の中には単純に白黒つけられるようなものはほぼ皆無である。
  • 白と黒の間に存在する広大なグレーゾーンの間で、個別のケース一つ一つに注意深く目を向け、グレーの濃淡を丁寧に可能な限り時間をかけて評価すべきである*1
  • 個別事象のグレーの色合いを丁寧に、まるでうすひだを伸ばすがごとく繊細に扱うことでのみ、真理に到達できる。

という確固たる信念のようなものを持っている。

朝まで生テレビや、ハリウッド映画、時代劇のような二元論はわかりやすく、わかりやすいものは人に好まれる。人間はわかりにくいもの、すっきりしないもの(例: 「白であり、同時に黒にも見える」とか「正しくもあり、間違っている」など)などは、本能的に忌避する傾向もありそうに見える。

それでも二元論で語ってみよう・・・そこに意義ある示唆が見出せそうな予感がするので

ただ、上記で述べた自分の信念は究極的には絶対捨て去りはしないことは前提として、世の中の何等かの傾向を説明する際に、二元論が便利なツールであるのは認めざるを得ない。二元論、三元論(などというものが存在するのだろうか?)など何らか分類法は使わざるを得ないであろう。分類の陰で崩れ去る数多の例外ケースの存在には目を瞑り。
究極的に言ってしまえば、自分と全く完全無欠に同一の感性、歴史を有する人間はこの世に存在しえない。ただ、そこからは、「人それぞれ別個の存在である」という決まりきった何の含蓄も面白味もない事実が導き出されるのみだ。

なので、あえて自分の信念から多少はずれた気持ち悪さの存在を自覚しつつ、田舎 vs. 都会 または、高学歴 vs. 低学歴という構図で自分が感じたものを徒然に書いていこうと思う。

ちなみに、私はど田舎で高校卒業まで育った後、以降は基本的に東京で暮らしているし、自分自身は高学歴な一方、自分の両親親戚含め、高校までの周りのごく身近なところに、低学歴の人々は普通に存在した。というか低学歴の仲間がデフォルトで7~8割を占めていた。ゆえに私は
阿部幸大氏同様、この構図で意味ある言説を紡ぎだせる経験と能力があると思っている。これまで書いてきたように。
(to be continued)

*1:かぎりなく白に近いグレー、限りなく黒に近いグレー、黒と白の中間付近に存在するグレーなどなど

日大アメフト部の事件が象徴する日本社会の負の側面とは

「日大アメフト部宮川泰介選手の会見に見るデジャビュ -日本社会の負の側面」というタイトルで、以前記事を二件ほど書いた*1が、今日は同じテーマで、もう少し深く突っ込んで考えてみたい。

今回の事件を一般化し、日本社会全体に広げて語る場合に、まず念頭に置くべきなのは、
「個別の事例を過度に一般化して語るのは時と場合によっては扇動、風説の流布につながる」
ということだ。実験科学の分野であれば、ある新説が提示された際に、世界中の科学者たちが実際に再現実験を行うことで、その説が正しいか否かを徹底的に評価、批評する。よって、「科学的に正しくない新説」が(少なくとも科学者コミュニティにおいて)、主流となり続けることはあり得ない。
残念ながら、自然科学外の多くの分野においては、自分たちにとって都合のよい事実や史実を抽出後、都合のよい物語を導き出し、ある特定の社会に属する人々にその物語を啓蒙する事例が、いくつも見られる。知的訓練を受けた頭脳明晰な学者であれば、特定の事実をつなぎ合わせて最もらしい論理構造を付与し、新たな物語を紡ぎだすことなど、御手の者なのだろう。
少なくともアカデミアに属する学者がそのような「操作*2」に従事するようなことは、知的に誠実な態度ではないし、恥ずべきことだが、たとえば全体主義国家では、ごくごく当たり前に見られるし、日本のような自由で民主的な国家においてもその傾向は存在するようだ*3

日本社会に依然亡霊のように存在し続ける、負の構図とは

まず、今回の日大アメフト部事件で見られた構図を、恣意的ではなく冷静、客観的に分析したい。以下の分析は、個人の主観に基づく恣意的操作でないかは、是非厳しく批評されるべきものである。

  • 上位層(≒ほとんどの場合で年長者)が絶対的な権力を保持している。
  • 上位層は組織の本来の存続目的や理念を忘れ去ってしまい、自分の権力強化や自己保身を第一義的な行動原理とする。
  • 基本的に下位の者は上位層の命令に従うよりほかなく、理不尽かつ非合理的な命令であったとしても反論できない。
  • 下位の者は一種のマインドコントロールの状態に置かれ、その組織から抜け出すという発想を自ら持つことができない。
  • 上位層の命令に基づく実行の結果が失敗に終わった場合、上位層は自らの責任を巧みに逃れようとし、実行者である下位の者に押し付ける。

といったところか・・・。(今後適宜上記分析結果は修正、加筆していきたい)

以上の特徴を有する構図が存在しないか、という観点で広く日本社会及びこれまでの日本の歴史を見直してみたとき、当てはまる例はいくつもありそうである。
(また明日に続きます)

*1:その1はこちらから。その1の続きはこちらから。

*2:もはや知的探求でもなく、研究でもない

*3:例えば、従軍慰安婦をめぐる日韓それぞれ右派と呼ばれる方々の論争を思い出してほしい。それぞれ都合の良い事実だけを切り取って、日本の中には「従軍慰安婦のほとんどは、経済苦から抜け出すことを目的として自ら志願し売春婦だ」と主張するものがいる一方で、韓国の中には「従軍慰安婦のほとんどは、日本軍が韓国の農村を回り、幼気な少女たちを強制拉致し、性奴隷として戦場に送り込んだ」と主張するものがる。どちらも極端だし、どちらも学術的に間違っている。

批判/批評がそれ自体目的となってはならない -日大アメフト部事件 (そのまた続き)

前々回の記事前回の記事に続く。

これまでの主張のまとめ

これまで繰り返し述べてきたことで、くどいのは百も承知であらためて、「批判/批評それ自体が目的となってはならない」ことは再度記載しておきたい。
今日のテレビの各種ワイドショーでも日大アメフト部の事件は相変わらずトップの扱いで取り上げられている。テレビでも多くの出演者が学校法人日本大学と日大アメフト部指導陣を様々な表現で批判(中には中傷レベルに近いものもある。一種の魔女狩りである)を継続しているようだ。
批判、批評は「悪者に正義の制裁を加えている」という正義感ももたらしてくれるし、また何かを罵ることそれ自体が発信者のストレスを手っ取り早く発散する手段となりがちである。
ただ、批判、批評それ自体が目的ではないし、前回の記事で述べた通り、現段階で達成すべき最も重要なゴールは、「三者委員会主体で徹底的に調査で事実関係を詳らかにした後、日大アメフト部及び学校法人日本大学の組織内の問題の所在を特定し、日大アメフト部および日本大学統治機構体をあるべき望ましい体制へと、一から刷新すること」である。我々のような第三者は、口汚く日大アメフト部監督や日大組織上層部を罵るのではなく、上記で述べた「達成すべき最も重要なゴール」達成に向けて、その進捗を監視することである。そして、スムーズな進捗を妨げる要因が何かしら存在すると判明した場合には、その要因の除去に向け、世論として圧力をかけることが求められる。

日大宮川選手および、日大現役アメフト部選手たちを世の喧騒から守ること

なお、これまで述べてきた学校法人日本大学と日大アメフト部の抜本的組織体改革と同程度に重要なこととして、「日大宮川選手や日大現役アメフト部選手達の手に、平穏な日常生活と平穏な精神状態を一日も早く取り戻してもらうこと」も忘れてはならない。
宮川選手以外のアメフト部員達はほぼ罪はない。また宮川選手についても、「情状酌量の余地が大いにあり、むしろ日大アメフト部の悪の構造の被害者だ」という主張にほぼ全ての人が賛同するであろう。
そんな日大アメフト部の選手たちに対しても、世論がここまで加熱し、様々な誹謗中傷が蔓延している中で、様々な世の声が様々な媒体を通じて間接/直接的に届けられているであろう。世の声の中には、彼らの心をぐさりとえぐるものも多いだろうと思う。さらに、心無いメディアから不躾に突撃され、コメントを求められることもあるだろうし、現時点ではアメフトどころか普通に大学生として生活することも難しい状況であろうことは、想像に難くない。20前後の社会経験のない若者たち(中には成人前の選手もいるだろう)の気の毒な状況を想像すると、心が痛む。
本来であれば、メディア業界に身を置く方々が、ジャーナリストの良心に基づき、節度ある態度で取材活動に勤しみ、また世論の過熱を収める役割を果たして頂きたいのだが、これまでの様々な世を賑わす事件のメディア方向傾向を踏まえても、まず期待しても無駄であろう。一部に良心的なジャーナリストが存在はするが、彼らがメディアの趨勢になることはこれまでなかった。

よって、我々世論を構成する一人一人が冷静かつ節度ある態度で本事件にも接すべきである。
冷静かつ節度ある態度は、具体的に言うと、

  • 扇動的な報道や、出典の不確かなニュースなどからは距離を置き、そのような報道を行った機関に対して直接一視聴者として抗議の投書をする。特に日大アメフト部員は勿論のこと、個人のプライバシーに配慮しない報道を行ったメディアは厳しく批判する。
  • 身内の会話、ネット上での投稿において、単に学校法人日本大学や日大アメフト部首脳陣を罵倒するような内容は控える。代わりに、「一刻も早い第三者委員会の設置および組織改革の工程表の公表」を求め続ける。

あたりではなかろうか。

若干余談だが、以前、「ある治家および政治のレベルはその国の国民の知的レベルと同等である。」という説を目にしたことがある。ここで、「政治家をジャーナリスト」、「政治をメディア」に置き換えてみても、この説は真だと思う。平均的な日本国民の知的レベルに合わせた、日本国民が喜ぶニュースをメディアが流している、という言い方も可能だ。
ということは、メディアの自浄作用に期待する前に、我々一人一人が自分ができる範囲から「あるべき世論の姿」形成に向けて尽力することがまず重要、ということになるのだ。